Shotters Nation / Babyshambles 【Pitchfork 翻訳】

Shotters Nation / Babyshambles (2007)

pitchfork.com

4.0

ピート・ドハーティは、リバティーンズ後のグループ、ベイビーシャンブルズの 2 枚目のアルバムで、彼が知っていること、つまり苦痛、自己憐憫、そして薬物依存症を公にし尽くしたことに対する一般的な無関心さを綴っている。

薬物中毒者の言い訳を鵜呑みにして薬物を助長するようなことはしないように、と多くの人は忠告する。しかし、エンターテイナーに関してとなると、それを誰も止めることはしない。最近では、リハビリ施設の出入りは、レッドカーペットのプレミアのような華やかさで、タイミングよく行われるようになった。もちろん、ピート・ドハーティもそうだ。この数年、この元リバティーンズメンバーは、私生活の習慣を際限なく公にすることで、意図的に公的な人格を作り上げ、その病気は、英国のエンターテインメント・プレスという近親相姦的な反響の場によってあおられてきた。どう見ても、ドハーティはクラックとヘロイン中毒の熟練したパフォーマーとして登場し、テレビカメラに向かって注射器を吹き付けるなど、さりげなくグロテスクな行為をする傾向がある。

ポスト・リバティーンズといわれる Babyshambles の 2 枚目のアルバム Shotter's Nation では、彼はより伝統的な、実際にギャラを得るためのパフォーマンス活動を再開している。アルバムの 1 曲目では、薬物乱用で有名になった自分のライフスタイルをストレートに表現している。"Carry On Up the Morning" は、「朝になるとあの痛みはどこへ?/名声が向かうのと同じ場所、お前の頭の中だろうか」という連句で始まる。この曲の諦観的な距離感は、Nation の舞台を設定するものである。ドハーティは自分の状況を把握しようとしている。

その状況は人が期待するような形をとっている。Nation の曲は、大雑把で自己嫌悪に陥るような反省や、過去の過ちに対する後悔から逸脱することはあまりないのだ。ファーストシングルの "Delivery" では、タイトルの小包は「俺の不幸の中心からまっすぐに」届く。"UnBiloTitled" では、ドハーティは「お前は俺を愛していると思うだろう/なぜお前は消えてしまわないんだ?」という自己嫌悪の叫びを伝えた後に、彼は実際に一時的に若返ったように見え、曲の後半は飛び立つような調子になる。"French Dog Blues" の歌詞「お前が欲しかったのは 60 ドルのバッグと安物のリムジンだけ」は、反コカインのイアン・ブラウンの曲から取られ、常にパーティーをするセレブのグルーピーだらけの生活を扱っている。同様に "Side of the Road" は「自分の嫌いな人に囲まれないようにしろ」と推奨する。

Shotter's Nation がドハーティのある種の原点回帰だという考えは的外れだ。それは主に、より才能があり責任感の強いカール・バラーのバックアップがあった時でさえ、彼は決して形にこだわることはなかったからだ。リバティーンズは確かにめちゃくちゃだったが、少なくとも彼らは、どうしようもなく二日酔いになってしまうような、容赦ない若者のエネルギーによって動かされる、爽快なめちゃくちゃさを持っていた。ドハーティにとって、Babyshambles はその二日酔いを音楽的に実現したものであり、彼の中途半端な作曲がそれを裏付けている。"Delivery"は "You Really Got Me"のリフを、結成したての高校生バンドのようにパクる。"Crumb Begging Baghead" はオルガンの効いたナゲッツの再来だし、"UnstookieTitled" はなぜか R.E.M. の "Seven Chinese Brothers" の眠たい逆バージョンみたいな感じだ。"There She Goes" に関しては、ラウンジ的なスウィング・ジャズはドハーティに似合わない形だと言うしかない。

Nation が完全な失敗を免れているのは、終盤の "Deft Left Hand" においてだ。この曲は、"I Wanna Be Your Dog" のリフを妙に軽快にしたもので始まり、その上に静かで楽しげなギターラインが重ねられている。歌詞の「お前のそばにいられないなら、俺は横たわって死ぬ」というリフレインは、ドハーティの恋人ケイト・モスーシドにとってのナンシーーを指していると考えて間違いないだろう。そうでないにしても、この曲においてドハーティはNation の中で唯一集中力を取り戻し、単なる苦痛ではなく情熱を表現している。結局のところ、Nation は、仕事をする代わりに少しばかりハードに遊ぼうとする、ロックに野望を抱く人々に対する客観的な教訓として役立つのかもしれない。深い中毒がもたらす見落とされがちな副作用は、退屈で自己中心的な芸術を生み出してしまうことなのだ、と。