Rush! / Måneskin 【Pitchfork 翻訳】

pitchfork.com

2.0

イタリアのロックバンドは、世界的なセンセーションを巻き起こした。彼らの新しいアルバムは、考えられるすべてのレベルにおいて絶対的にひどいものだ。


マネスキンの世界に引きずり込まれたリスナーがいる。マネスキンのメンバーの興奮、屈託のない精神、下唇を噛んでギターの弦を曲げるパントマイムのような肯定的なジェスチャー、それらを私は感じることができる。このイタリアの大人気バンドの中に、このリスナーは稀有で強力なものを発見したのだ。そう私は知っている。マネスキンは、トラディショナルなロックを演奏する 3 人の男と 1 人の女、しかも全員がアイラインを引いただけのバンドではないのだ。このリスナーにとって、マネスキンはもっと重要なもの、つまりオルタナティヴな存在なのだ。

問題は、いったい何に対するオルタナティヴなのかということだ。マネスキン(デンマーク語で月光を意味し、MOAN-eh-skinと発音する)の世界的な人気は、人々の集合的な無意識が、何か別のもの、クールでも大衆的でもないと感じるレトロで痴的な態度、したがってクールや大衆とは対立するものを求めていることを示しているようだ。彼らの音楽は、まるで新型フォード F-150 を紹介するために作られたようなものだが、2021 年のユーロビジョン・コンテストでは完璧でポップなサウンドで優勝した。同年、彼らは TikTok で、もともとは 20 世紀半ばのポップ・グループフォー・シーズンズが書いた曲 "Beggin'" の彼らのヴァージョンで大規模に拡散された。マネスキンはローマ出身で、良いロックミュージックに辿り着く前に 1000 もの物事で有名な都市である。「彼らは世界を征服することができるのか?」、ニューヨーク・タイムズ紙はそう問うた。そして、主に英語で録音された彼らの最初のアルバム Rush! は、考えうるすべてのレベルでまったくひどいものだ:耳障りなボーカル、想像力のない歌詞、そして音楽的には一本調子。大音量で聴けば聴くほど悪く聴こえるロック・アルバムだ。

マネスキンは今、Rush! が自分たちの人気を正当化するための問いかけを提示しなければならない立場にあることを知った。世界ではいろいろなことが起きているが、ロックミュージックが再びセクシーになればいいと思わないか? もっと多くのアルバムで、トム・モレロがオクターブ・ペダルのギター・ソロを披露してくれたらと思わないか? もし、俺らが「俺の尻にキスしな」という言葉を初めて歌ったバンドだったら? コロンのコマーシャルがもっと長かったらと思わないか? ギターセンターがグラミーを受賞したらと思わないか? もしマックス・マーティンがウルフマザーと一緒に仕事をしていたら? フォクシー・シャザムというバンドを覚えているか? ハリウッドがいかに偽物でインチキか、なぜ誰も語らないのだろうか? 「ああ、マンマ・ミーア、あなたの愛を俺に吐き出してくれ。俺はひざまずいて、あなたの雨を飲むのが待ちきれないんだ」みたいな歌詞は、今の人たちが怖くて歌えないようなものだとは思わないか?*1

自分たちが何かのオルタナティヴであることを正当化しようとする最も荒っぽい試みは、"Kool Kids" だ。フロントマンのダミアーノ・デイヴィッドが偽のイギリス訛りを使って「クール・キッズ」に対する風刺的な批判を展開しているのは、まるでトーリー版マーク・E・スミスがヴァインズに対して叫んでいるように聞こえるのだ*2。「俺たちはパンクでもポップでもない、ただのミュージック・フリークだ」とデイヴィッドは叫ぶ。「クールな子供たちはロックを好まない/彼らはトラップとポップしか聴かない」と彼は続け、自分のコメントにもっとアップヴォートをつけたいと願っている。グッチに身を包むだけでなく、グッチによって着飾られているバンドからの興味深い社会的不満の声である。

しかし、マネスキンの不思議な魅力は、彼らの音楽を聴くと、ついに文化的に、私たちが何か避けられないマスのマネスキンイベントに到達したのだと思わずにいられないほどひどいバンドだというわかるということにある。これは何か意味があるに違いない。理論的には、マネスキンは――その礼儀正しく象徴的で、若々しく、はっきりしないヨーロッパの、反主流派という装いで――アメリカ人がかつて「オルタナティブ・ロック」と呼んでいたものに当てはまるかもしれない。このジャンルは――80年代から90年代にかけての社会的掟に従って――自分が何を好きかは自分が何を嫌いかを示すという趣旨のものであった*3ソニック・ユースのアルバムを所有することで、そうでなければスピン・ドクターズのアルバムに消費されるはずだったエネルギーを使うことができる。マネスキンの世界的な人気は、かつて単一文化のメインストリームに対抗してオルタナティヴを結集させた、反対勢力への回帰を示唆しているのかもしれない。マネスキンの 65 億回を数えるストリーミング再生は、新たなロック・リバイバルの幕開けを予感させるものなのだろうか?

問題は、10 年ほど前、ストリーミング時代の幕開けと同時に、私たちの知る「オルタナティブ」が消滅してしまったことだ。ストリーミングサービスで音楽を消費することで、音楽は多次元的なイベントとなり、あらゆるものを、あらゆる場所で、一度に聴くという大量変換が行われるようになった。ジャンルはサイロ化し、外側は枯れ、内側は繁栄するようになった。マネスキンの "Beggin'" がビルボードチャートの上位にランクインしたのは、何かに対する文化的な反応ではなく、ただの異常事態だったのだ。それは全く意味のないコンテンツにすぎなかった。彼らは、ヘアメタルを地図上から消し去るためにここにいるニルヴァーナではなかった。彼らの成功は、ヨーロッパのリアリティ番組での競争、アルゴリズム、そして累積的優位性によって促進された。彼らは真空中のカオスなのだ。こうして私たちは、初期ゼロ年代の NME のカバーのパロディのように聞こえ、全体の雰囲気が「シルク・ドゥ・ソレイユ:バックチェリー」と表現されるのが最もふさわしいバンドを理解することができる。

マネスキンが「ロック」を愛する「ミュージック・フリーク」であるという前提を受け入れたとしても、 Rush! にはそのような印象を与えるものが何もないことを知れば失望するだろう。彼らの一番の影響は、サッカーの試合での "Seven Nation Army" の掛け声、次が後期の Red Hot Chili Peppers で、それ以外はほとんど何もないようだ。信じられないような "Mammamia" では、ベース、ギター、ボーカルがほとんど武骨なユニゾンで演奏されている。小学校4年生のバンド練習、あるいは偏頭痛を思い起こさせる魅力的なチョイスだ。 Rush! に収録されている数少ないダイナミックな曲のひとつ "Read Your Diary" と比較してみよう。しかしこの曲も、シャンパンをパンティにかけたり、「左手を使うのは君のように感じるから」というセリフを聞かせる楽しいバールーム・シャッフルなのだ。

女子学生のスカートの中を覗き込むバンドの複雑なリアクションを描いたカバーアートを始め、マネスキンのリビドーは、彼らが目指す怜悧で汎性的な、トランスグレッシブな質感には到達していない。オーガズムや体液、オーラルセックスのセリフはどれも、まるで地下鉄で突然 AirDrop されてきたかのような印象を与える。これは、ファックについての歌に対する純粋なセックス否定的な反応ではなく、デザイン問題なのだ。 Rush! は、バンドとメガワット・ポップ・ソングライターのマックス・マーティン、そしてラジオのヒットメーカーたちによって制作されたが、彼らの艶やかな作品は、マネスキンの奔放でトルクの強過ぎるチンポ・ロックとは解け合うことがない。この作品は、バッファロー・ワイルド・ウィングスのトイレでくつろぐために作られたような、窮屈でデジタル化された、気の利かないサウンドになっている。

これは誰のためのものなのだろう? マネスキンの熱烈なリスナーはどこにいるのだろうか? Rush! が、ブラック・キーズやグレタ・ヴァン・フリートやその他のグラミー賞受賞のコア・ロックがそうしたように、本物の音楽の日々を懐かしむ高齢のノスタルジー愛好家を結集させると想像するのは、信憑性に欠けるだろう。セックス・バカのロック――T・レックス、AC/DCヴァン・ヘイレンジェーンズ・アディクション、The 1975 など、様々なジャンルを渡り歩いてきた歴史ある素晴らしいジャンルだ――には、もっと良いものがあるはずなのだ。しかし、マネスキンは、あなたがどこにいようとも、あなたのためにここにいる。あなたのアイデンティティを構築し、「俺はクールキッズとは違う、マネスキンと一緒だ」と言えるバンドなのだ。

*1:ここは皮肉が効いている。やっていることがダサすぎて、何か目的があって意識的にやっているのではなくベタにやっているのだとしたらセンスを疑う、というような意味。

*2:詳細不明

*3: つまりオルタナティヴバンドを好きだと言うと、何への逆張りをしているかがわかる。

Shotters Nation / Babyshambles 【Pitchfork 翻訳】

Shotters Nation / Babyshambles (2007)

pitchfork.com

4.0

ピート・ドハーティは、リバティーンズ後のグループ、ベイビーシャンブルズの 2 枚目のアルバムで、彼が知っていること、つまり苦痛、自己憐憫、そして薬物依存症を公にし尽くしたことに対する一般的な無関心さを綴っている。

薬物中毒者の言い訳を鵜呑みにして薬物を助長するようなことはしないように、と多くの人は忠告する。しかし、エンターテイナーに関してとなると、それを誰も止めることはしない。最近では、リハビリ施設の出入りは、レッドカーペットのプレミアのような華やかさで、タイミングよく行われるようになった。もちろん、ピート・ドハーティもそうだ。この数年、この元リバティーンズメンバーは、私生活の習慣を際限なく公にすることで、意図的に公的な人格を作り上げ、その病気は、英国のエンターテインメント・プレスという近親相姦的な反響の場によってあおられてきた。どう見ても、ドハーティはクラックとヘロイン中毒の熟練したパフォーマーとして登場し、テレビカメラに向かって注射器を吹き付けるなど、さりげなくグロテスクな行為をする傾向がある。

ポスト・リバティーンズといわれる Babyshambles の 2 枚目のアルバム Shotter's Nation では、彼はより伝統的な、実際にギャラを得るためのパフォーマンス活動を再開している。アルバムの 1 曲目では、薬物乱用で有名になった自分のライフスタイルをストレートに表現している。"Carry On Up the Morning" は、「朝になるとあの痛みはどこへ?/名声が向かうのと同じ場所、お前の頭の中だろうか」という連句で始まる。この曲の諦観的な距離感は、Nation の舞台を設定するものである。ドハーティは自分の状況を把握しようとしている。

その状況は人が期待するような形をとっている。Nation の曲は、大雑把で自己嫌悪に陥るような反省や、過去の過ちに対する後悔から逸脱することはあまりないのだ。ファーストシングルの "Delivery" では、タイトルの小包は「俺の不幸の中心からまっすぐに」届く。"UnBiloTitled" では、ドハーティは「お前は俺を愛していると思うだろう/なぜお前は消えてしまわないんだ?」という自己嫌悪の叫びを伝えた後に、彼は実際に一時的に若返ったように見え、曲の後半は飛び立つような調子になる。"French Dog Blues" の歌詞「お前が欲しかったのは 60 ドルのバッグと安物のリムジンだけ」は、反コカインのイアン・ブラウンの曲から取られ、常にパーティーをするセレブのグルーピーだらけの生活を扱っている。同様に "Side of the Road" は「自分の嫌いな人に囲まれないようにしろ」と推奨する。

Shotter's Nation がドハーティのある種の原点回帰だという考えは的外れだ。それは主に、より才能があり責任感の強いカール・バラーのバックアップがあった時でさえ、彼は決して形にこだわることはなかったからだ。リバティーンズは確かにめちゃくちゃだったが、少なくとも彼らは、どうしようもなく二日酔いになってしまうような、容赦ない若者のエネルギーによって動かされる、爽快なめちゃくちゃさを持っていた。ドハーティにとって、Babyshambles はその二日酔いを音楽的に実現したものであり、彼の中途半端な作曲がそれを裏付けている。"Delivery"は "You Really Got Me"のリフを、結成したての高校生バンドのようにパクる。"Crumb Begging Baghead" はオルガンの効いたナゲッツの再来だし、"UnstookieTitled" はなぜか R.E.M. の "Seven Chinese Brothers" の眠たい逆バージョンみたいな感じだ。"There She Goes" に関しては、ラウンジ的なスウィング・ジャズはドハーティに似合わない形だと言うしかない。

Nation が完全な失敗を免れているのは、終盤の "Deft Left Hand" においてだ。この曲は、"I Wanna Be Your Dog" のリフを妙に軽快にしたもので始まり、その上に静かで楽しげなギターラインが重ねられている。歌詞の「お前のそばにいられないなら、俺は横たわって死ぬ」というリフレインは、ドハーティの恋人ケイト・モスーシドにとってのナンシーーを指していると考えて間違いないだろう。そうでないにしても、この曲においてドハーティはNation の中で唯一集中力を取り戻し、単なる苦痛ではなく情熱を表現している。結局のところ、Nation は、仕事をする代わりに少しばかりハードに遊ぼうとする、ロックに野望を抱く人々に対する客観的な教訓として役立つのかもしれない。深い中毒がもたらす見落とされがちな副作用は、退屈で自己中心的な芸術を生み出してしまうことなのだ、と。

The 1975 / The 1975【Pitchfork 翻訳】

The 1975 / The 1975 (2013)

https://pitchfork.com/reviews/albums/18467-the-1975-the-1975/

The 1975 は 2011 年にサードウェーブ・エモ・バンド、the Slowdown として登場し、その後すぐに姿を消した。数年後マンチェスターで再始動したこのグループのピカピカに磨き上げられたセルフタイトルのフルアルバムは、フェニックスや M83 のようなきらびやかなシンセ・ロックを目指している。


The 1975 の歴史は奇妙で長い。2011 年には、マンチェスターのバンド the Slowdown による完璧な Jimmy Eat World 風のモールエモなアンセム "Sex" が存在した。白黒のビデオでは、完璧なヘアスタイルの4人のテレビ映えのする人々が、慎重に置かれた Johnny Cash のポスターのそばで演奏していた。明らかにアメリカのいくつかの雑誌の表紙を飾る運命をあと 1、2 ヶ月で達成することができるような内容だった。

しかし、そのようなことは起こらなかった。それどころか、誰かさんは多くの間違いを犯してしまったようだ。「誰かさん」と言ったのは、このバンドの呼び名はかつて Drive Like I Do だったらしいし、あるいは the Big Sleep かもしれないし、実際はすでに the Slowdown とは呼ばれていなかったかもしれないからだ。とにかく、彼らはすぐに姿を消した。彼らの Soundcloud も、Bandcamp も、そしてあのビデオさえも、一発屋としての地位を確立する前に、無情にも消えてしまったのである。

それから数年後、私たちは彼らの完全な再始動に直面していることに気づく。こんにちは、僕たちは The 1975 です、これが新曲 "Sex" です。同じ人たちが今、そう言っている。私たちは肩をすくめて言うしかない。OK、君たちと。 長く不可解な構想期間から生まれた彼らは今、2 度目の第一印象を与えるバンドのように、過剰なまでに活発なご様子だ。バンド名、アルバム名、そして最初の曲はすべて "The 1975" だ。"Sex" は完全に再録音され、不器用なティーンネイジャーの欲望まみれのビデオ処理も施されている。

サウンドも一新された。サードウェーブ・エモから離れ、Wolfgang 期の Phoenix や M83 の Hurry Up, We're Dreaming! のようなきらびやかなモジュラー・シンセ・ロックを目指している。しかし皮肉にも、2010 年当時と比べると今の彼らの個性は薄れてしまっているようだ。Arctic MonkeysTwo Door Cinema Club を手がけた Mike Crossey がプロデュースしたこのアルバムは、誰もが一度は購入した覚えのある CD 時代のポップロックアルバムに回帰したものだ。再録されたシングルを中心に、あまり練られていない、何となく似たようなものが並んでいる。

シングル曲の中には、まだ使えるものがいくつかある。大きくがっしりしたドラムループで構成された "The City" には、"I Still Remember" の頃の Bloc Party のような寂しげなロマンチシズムがある。"Heart Out" は、「ヘイ!」という掛け声で強調され鳴り響くシンセサイザーで幕を開ける。M83 の "Midnight City" を忠実に再現したような曲だ。マシュー・ヒーリーのつま先立ちのボーカルは、かわいい男の子の震え声とアデノイドの金切り声の狭間で、アイスクリーム頭痛のスイートスポットにヒットする。彼が指し示しているように見えるある種の「クールさ」は、丁寧に放射性炭素年代測定され、いくつかの異なる言語から英語に翻訳されたもののように感じられる*1。歌詞にはあからさまないやらしさが多いが、音楽にはセックスもグリースも危険もない。彼らのずば抜けて一番の曲 "Sex" においてもだ。

この曲は、The 1975 の他の数曲と同様、他のバンドにはほとんどない秘密兵器、ミドルエイトを誇っている。このようなポップ志向のバンドでありながら、The 1975 のソングライティングは驚くほど硬直し、閉鎖的で、想像力に欠けるものになってしまっている。プロダクションはきらびやかで素晴らしく、バンドがもっと洗練された才能を持っていれば達成できたかもしれないことを示唆している。"M.O.N.E.Y." 冒頭のスキッピングシンセと手拍子や、 "Talk!" のがっしりしたドラムビートのそばでそわそわするギターは、優しくカフェインを含んだ活気を作り上げる。しかし、曲は冒頭の数秒間で確立されたタイトなラインに沿って疾走し、何マイルも先までブリッジが見えてこない。活気は早々と消失してしまう。アルバムを通じた効果は、将来有望な新人バンドが自己紹介を繰り返すようなものだ。次に何を言うべきかを考えることに若干の価値があるものなのだが。

*1:[...] the version of "cool" he seems to be gesturing towards feels endearingly carbon-dated and translated from a few different languages into English. 難しい。要するに古臭いということが言いたいのか。